健康オタクのブログ

病気を患い、日頃の健康の大切さがわかった人間の新しい健康オタク生活。

失敗を「引きずる人」と「糧にする人」の差  人生が終わるような失敗は「まず起こらない」

臨床に携わる一方、TVやラジオ番組でのコメンテーターや映画評論、漫画分析など、さまざまな分野で活躍する精神科医名越康文氏による連載「一生折れないビジネスメンタルのつくり方」。エンターテインメントコンテンツのポータルサイトアルファポリス」とのコラボにより一部をお届けする。

■覆水盆に返らず

誰もが、仕事で失敗はしたくない、と思っています。心配性の人は、できるだけ準備を整え、あらかじめ失敗の芽を潰しておこうとするでしょう。あるいは失敗を上司に知られたくないあまりに微妙にごまかしたり、思わずウソをついてしまったりした経験のある方も、いらっしゃるかもしれません。

ただ、あえて強引に言い切ってしまいますが、心理学的に見たときに、「失敗」について私たちが肝に銘じておくべきことは、「失敗は決してなくなりはしない」ということと、残念ながら「失敗をなかったことにはできない」ということです。これは、「いかにして失敗を防ぐか」を考えるよりも、ずっと大切なことです。

どれほど優秀な人でも、どれほど完璧なプロジェクトでも、それを担うのが人間である以上、必ず失敗はあります。どれほど完璧な準備をしていても、不測の事態というのは起きるのです。そして何より重要なのは、失敗というのは、起きてしまったら、それを「なかったこと」にはできないということです。

もちろん、失敗した後に、その「穴埋め」をしたり、失敗から学び、それを上回るような成果を持ってきて、失敗を「帳消し」にしたりすることはできますし、世の中にはそういう実話がいっぱいあります。しかし、失敗そのものを消去することはできません。

「覆水盆に返らず」というのは、真理です。机から落ちて、割れてしまったグラスは、元のとおりにはなりません。失敗はなくならないし、失敗自体を「無」にすることはできない。当たり前のことですね。ではなぜ、わざわざ、こんなことを強調するのか? それは私たちが、しばしば失敗を受け入れられないことによって、さらなる失敗を招き寄せてしまいがちだからです。

私たちはともすると、「グラスが割れた」という事実から目を背けようとしたり、「グラスが割れた」ことの責任を、自分以外の誰かに転嫁しようとしてしまい、結果的により大きな問題を招き寄せてしまうことがあるのです。

■「できること」と「できないこと」がある

最近、こんな経験をしました。ホテルでの会食のあと、友人と10分ほど話し、駅に着いたときに財布が手元にないことに気がつきました。記憶をたどってみると、どうやら会食をしたお店のトイレに置き忘れてしまったようなのです。

駅からホテルの8階のトイレまでは、どれだけ急いでも10分以上はかかります。会食のあとに行ったトイレに忘れたのだとすると、もう30分以上経っています。

一瞬、いろんな後悔や不安がサアッと頭をよぎりました。「どうしてすぐに気がつかなかったんだろう」「どうして、10分も立ち話をしてしまったんだろう」「この30分ぐらいの間に、誰かにとられてしまったかもしれない」などなど。

でも、こうした「後悔」や「不安」は、この場面においてなんの役にも立ちません。なぜなら、どれもすでに「取り返しがつかないこと」ばかりだからです。うっかり忘れ物をしてしまったことについての反省は、少なくとも今やるべきことではない。

今やるべきことは、忘れた可能性の高いホテルの8階のトイレまですぐに戻って探すことであり、もしもそこになければ、お店のスタッフの方に忘れ物が届いていないかを確認することです。

これは、どんな失敗でも同じです。失敗したときにやるべきことは、今自分にできることとできないことを冷静に見極めて、即座に「行動」に移すことしかありません。言葉にすれば当たり前のことですが、これが難しいんですね。多くの場合、私たちは「失敗」そのものにこだわって冷静さを失い、不安にかられ、なかなか適切な行動を取ることができないのです。

失敗に気づいたときには、まずはしっかりとゆっくりと深呼吸をするようにしてください。できたら、まず息を吐ききってから胸いっぱいに吸って、いったん4秒ほど息を止めてから細く長く吐くのが理想的です。そうすれば副交感神経が刺激されてリラックスを得られるでしょう。呼吸に整えることで、冷静さを取り戻せます。しかる後に、自分にできること、できないことを見極める。

幸い、8階のトイレの個室に行くと、置きっ放しになっていた財布を発見し、ほっと胸をなでおろしました。

■想像の「1/10程度」しか悪影響は起こらない

深呼吸をして、心を落ち着けることができたら、まず、自分が犯した失敗によって「具体的に、どんな問題が起こりうるか」ということを考えてみましょう。パニックを起こしているとき、私たちは実際に起こりうる問題の10倍ぐらい、大きな問題が起きると妄想してしまっていることが多いのです。

逆に言えば、現実に生じる問題の8割以上は、あなたが想像していることの1/10程度だということです。

え!? たった1/10!?と驚かれるかもしれませんね。でも、想像してみてください。あなたの人生で、ほかの誰かが失敗したことで、あなたの人生がひっくり返るほどの影響が起きたことが幾度あったでしょうか。現実的に考えて、1人の人間の失敗がもたらす影響というのは、意外にわずかなものなのです。

にもかかわらず、私たちは日常的な失敗でもかなり激しく動揺します。「上司に怒られるかもしれない」とか「取引先から契約を切られてしまうかもしれない」という不安で頭がいっぱいになる。これは結局のところ、「失敗そのもの」というよりは、失敗によって「他人からの評価」が損なわれることが、とても不安なのです。

この不安が強い人ほど、自分の失敗の影響を「過剰評価」します。この「過剰評価」はほぼ建設的な行動や発想にはつながりません。人間の心は動揺に弱いのです。

つまり、失敗を隠そうとしたり、自分の中で言い訳することばかりに気を取られて、肝心の「失敗の後始末」がおろそかになってしまう。その結果、失敗の悪影響が拡大し、かえって自分の評価を下げてしまうことにつながるのです。

とくに日本人は「人に迷惑をかけてはいけない」という価値観に、無意識のうちにきつく縛られています。この強迫観念が「失敗」と結びつくと、一気にパニックが起きます。つまり、同じ失敗でも「他人に迷惑をかけるような失敗」をしたとき、私たち日本人のメンタルは大ダメージを受けやすい。このことは覚えておくといいのではないでしょうか。

唐突に聞こえるかもしれませんが、仏教では失敗を「仏様から与えられた試練」と捉えるという考え方があります。

■失敗を「試練」として捉える

「失敗」はただの偶然ではない。それが生じるには何らかの意味がある。そしてそれは決してネガティブな、マイナスの意味ではない。なるほど、今この場においては痛い経験以外のなにものでもないが、実は成長のきっかけになる意味のある経験なのだ、という捉え方です。

これは“仏”という信仰の対象ありきの思考法ではありますが、実は心理学的にも極めて有効なのです。なぜなら人間のメンタルは「無意味性」にとてももろいからです。それに対して、どんなつらいことでもそれに「意味」や「意義」があるといったん認識できると、人間の心はまるで変身したかのように忍耐強くなり、クリエーティブにすらなるからなのです。

失敗をしたときに「なんでこんなミスをしてしまったんだろう?」「こうすれば防げたかもしれないのに」とくよくよ悩む次元から脱却して、「この試練を乗り越えれば、私はまだ成長できる。だから、仏様はほかならぬ自分にこの試練を与えたのだ」と捉える。信仰がなくても構いません。

失敗を自分が成長するために必要な「試練」と捉える。たとえ疑いつつでもいいのです。一度そう意識の中で自分に言い聞かせるだけでも、われわれの心は落ち着き、前向きになっていきます。

これは、ただの「ポジティブシンキング」とは違う、仏教が持っている、広大で緻密な世界観を背景にした捉え方です。

失敗したとき、私たちは往々にして、失敗の原因を他人や社会など、「自分以外のもの」に求めがちです。しかし、本当は、失敗の原因というのは、目に見える他人や社会「だけ」ではなく、森羅万象のすべてにつながっています。

仏教には「因果応報」という言葉があります。この言葉は、「悪いことをすると、めぐりめぐって自分がひどい目に遭う」という理解が一般的だと思いますが、仏教における因果応報というのは、「気づかないうちにやった悪いこと/いいこと」もまた、すべて自分自身につながっている、という考え方です。

例えば、仕事で失敗をしたとします。それまでずっと真面目にやってきたし、人に後ろ指をさされるようなこともしていない。失敗するような原因など、どこにも見当たらない。でも、実はどこかに原因はある。なぜなら、自分が認識できないだけで、人間がやっていることはすべてがつながっているからです。

言い換えれば、どんな不条理な出来事に見えても、本当はちゃんと因果関係はつながっている。ただ、その因果関係が複雑すぎて、普通の人間の理解力では捉えきることができない。これが2600年前にお釈迦さまが悟られたと言われている、仏教の世界観なのです。

■不条理を受け入れること

ちょっと、話が難しくなってしまったかもしれませんね。私が言いたいのは、「失敗をどう受け入れるか」というのは、結局のところ「不条理な出来事(不幸)をいかに受け入れるか」という問いに直結しており、実は一般的な心理学ではその問いには答えられていない、ということなんです。

言い換えれば、失敗を受け入れるというのは、心理学の範囲を超えた問題であり、宗教=信仰のレベルの課題だったということです。しかし僕は、心理学と宗教というのは、相補的な関係にあると考えています。心理学で解決がつかないものは、宗教という何千年に及ぶ人類の知恵からヒントを得ることができるということです。

たまたま自分の身に降りかかった不幸、自分に責任がないように思える失敗。こうした出来事に対して「ああ、これもまた、自分にとって意味があるかもしれない」と捉えること。これはもう心理学ではなく、運命をどう捉えるか、つまり宗教の領域なんですね。

ただ、これを心理学的なトレーニングに変換することは可能です。例えば、大きな失敗をしてしまったときに、目を閉じて「これにもきっと意味があるのだ」と唱えてみる。理不尽で、腹立たしいことが起きたときにも、同じように唱えてみる。できれば3回ぐらい、声に出してみる。そうすると、フッと心が落ち着いてきます。

不条理を受け入れられるかどうかは、現実的に言って、人生を好転させる、大きな契機となります。「これにもきっと意味があるのだ」という<呪文>をぜひ心の片隅で覚えておいて、何か、失敗をしてしまったときに試してみてください。

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